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    わたしのはなし

    木下百花

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    ネットに流れてきた話を見て、少し考えたことがあります。

    今日は、自分の性についての認識や、そこに付随してきた違和感、そして時間と共に変わっていった考え方についての話をしてみます。

     

    こういう話は、まとめようとするといつも少し難しくて、言葉がかなり不器用な気がしてしまうのですが、それでも今はある程度、人に渡せる形にできるようになってきたなと感じます。

    昔の自分と今の私を繋げながら書いてみたいと思います。

     

     

     

    ■10代の頃、“自分の身体を見る”ということが苦手だった

     

    私は、特に10代の頃は、自分の裸や胸を見ることがとても苦手でした。

    お風呂場で鏡の前に立つたび、生々しさを感じて、なんとも言えない居心地の悪さが身体の奥から浮いてきました。

    それは嫌悪とも違うし、恥ずかしいとも少し違くて。

    ただ、「私のものなんだけど、なんか変だな〜」みたいな、よく分からないものを見てるような、ズレた感覚があった。

     

    そのズレは、服を着たら急に消えるわけでもなく、日常のふとした瞬間に立ち現れては私を困惑させました。

    一時期はずっと、胸をつぶすさらしを巻いて生活をしたり、スカートを履いた時の自分の太ももの形とか嫌いでした。

    ただ、「男性になりたい」という明確な願望があったかと言われるとそうではなかった。

    私は私でありたいんだけど、身体の形なのかなんなのか、なにかに対しての違和感が強かったです。

     

    ただ、生物学的に私は女性として、それを自分で認めています。否定してきたわけでもありません。

    でもそれは、私の全てでもなければ、私を説明するために最も重要な属性でもないと感じていたし、今もそう思う。

     

     

     

    ■アイドル時代の乖離

     

    NMB48にいた頃、私は派手髪にしたり、ピアスを埋め込んだり、後期はボーイッシュな風貌で活動していました。

    当時の私が「好きでやっていたもの」だけど、周りがそう定義することで、次第にそれらを役割として背負っていく感覚がありました。

     

    その姿を好きだと言ってくれる人が居たから、救われた部分も大いにあります。

    ただ同時に、私自身は「皆の中の、"木下百花"というカテゴリに守られて立っている」ようにも感じていて、次第に現実と、誰かの理想?みたいなものが乖離するようになって精神を病んだりもしました。

     

     

     

    ■最近感じたこと:私の存在が、誰かの救いになる時がある

     

    ありがたいことに、SNSやイベントなどで、「百花さんを見て、自分の性の違和感を受け入れられました」そんな言葉を貰うことも、これまでに何度かありました。

    昔の私にとって“誰にも言えなかった感覚”が、実は“誰かと共有できる言葉”になっている。

    これは、素直に嬉しいなと思ってます。

     

    私は今でも、自分が完全に男性だとも、完全に女性だとも思っていません。

    ただ、「自分はこうだ」と無理して決めなくてもいい世界で生きられるようになった。

    それが、ここ数年で得た大きな自由なのかなと思います。

    最近は特に、これまでの事も全部、一本の線で繋がっているんだなーと感じます。

    これからも私は私のまま生きていくんだろうな。

    なんだか最近はそう確信しています。

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